大同元年(806年)9月9日に阿蘇神社の神主尾方権助大神惟基が神託により阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を当地球磨郡青井郷に祀ったのに始まると伝える。その後天喜年中(11世紀中半)に再興され、建久9年(1198年)に領主として藤原(相良)長頼が当地へ下向した際にも再営して自家の氏神として尊崇、神領216石を寄進する等相良家歴代の篤い崇敬を受け、延徳3年(1491年)の同為続による社殿造営を始めとする数度の社殿の造営、修造が行われた。
相良氏は八代衆や球磨衆といった衆中と呼ばれる国人層を家臣団として抱え、その衆議を踏まえて領国経営を行ったが[3]、『八代日記』に永禄元年(1558年)2月26日に制定された17箇条の法について、同23日に八代郡の八代衆が妙見宮(現八代神社)で神裁(一味神水)を行った後に条文を球磨へ送った事と、同28日には球磨衆が「春井ニ御籠」って神裁をしたことが見え、この「春井」は「青井」の誤写で当神社を指し、当神社で制定前の衆議や制定後の神裁が行われたものと思われるので、相良氏にとっての当神社が信仰の対象であるとともに家臣団を統制する存在でもあったことがわかる[4]。
近世には青井大明神と称され[2]、相良家20代目に当たる長毎(頼房)は文禄の役での朝鮮出兵に際して当神社へ戦捷を祈願し、帰国後の慶長2年(1597年)に当神社を球磨郡内の神社250余社の総社と定め[1]、同6年に大村内の田地1町1,000歩(約4,000坪)を寄進[5]、戦捷祈願の報賽として社殿の大造営を行う等、近世を通じて同氏及び人吉藩による崇敬を受けた。なお、阿蘇神社の分霊社ではあるが、同神社の大宮司家(阿蘇氏)が南北朝の内乱期や戦国時代に相良氏と対立することが多かったためか阿蘇神社との関係は薄く、当神社は独自の宗教的展開を図っていたものと考えられる[6]。
明治5年(1872年)8月に郷社に列し、昭和10年(1935年)11月県社に昇格した。